数ヶ月前のことである。『はじめての経済思想史』中村隆之(講談社現代新書)を読んだ。読み終わって考えた。思えば自分はまともに経済思想を学んでこなかった、と。
なぜ、きちんと学んでこなかったのか。理由は二つある。
一つ目は、自分は経済思想史の基本中の基本すらわかっていない、ということがわかったからである。上記の『はじめての経済思想史』は、アダム・スミスから始まり、J・S・ミル、マーシャル、ケインズ、マルクス、ハイエク、フリードマン、そして現代における会社の所有権の概念について書かれたものである。
作者は「はじめに」の中でこう述べている。
「経済学の始まりであるアダム・スミスは18世紀の人なので、その歴史は250年ほどである。その間、何人もの偉大な経済学者がいるし、経済のあり方も変わってきている。けれども、大きな問いは変わっていない。どうすればよいお金儲けを促進し、悪いお金儲けを抑制できるか、である。経済学の歴史は、さまざまな悪いお金儲けが力を持ってしまうたびに、それに対抗する手段を講じていくというかたちで展開されてきた、と言えるだろう。」
この本は上記の観点を軸として、経済学の歴史を捉えたものである。その内容は簡潔にわかりやすく見事に整理されており、私はこの本から多くを学んだ。なるほどそうだったのか。経済思想とはつまり「どうすればよいお金儲けを促進し、悪いお金儲けを抑制できるか」ということだったのかと思い知った。もちろん、経済思想とはそれだけではないのだが、この本は一つの観点についてこれまでの経済学者はどのように考えてきたのかを論じることによって、経済思想史を学ぶことのおもしろさを感じることができる良い入門書であった。だからこそ、逆に自分の知識に欠落しているものを知ることができた。歳をとって良い入門書を読むということはそういうことなのであろう。
特に経済史の基本中の基本であるアルフレッド・マーシャルについて、初めて知ったということが多かった。この歳になって、である。私は新古典派経済学についての知識が著しく欠落しているのである。これはイカンと思った。
1980年代から今日に至るまでの社会と経済の覇権的イデオロギーとも言うベきものが、ハイエクとフリードマンを代表とする新自由主義である。このハイエクとフリードマンの本を、私はきちんと読んでいない。学生時代、フリードマンの「選択の自由」はさらっと読んだだけである。ハイエクの本はおそらく1ページも読んでいないであろう。これもイカン。きちんと読まねばと思った。いや、そもそも「国富論」ですら、最初から最後のページまで読んだかと言うと読んでいない。
理由の二つ目は、大学生の時、私は当時ブームだったニュー・アカデミズムの影響もあって経済人類学のカール・ポランニーについて本を読み、ものを書いていた。しかし今思うと、経済思想史の中でカール・ポランニーは異端派と呼ばれるのであるが、なぜ「異端」派になるのか。そもそもアダム・スミスから始まる経済思想史の中でカール・ポランニーはどのように位置づけられるのか、などということについては私はなにも答えられなかった。
私は経済学よりも、歴史学や人類学としてのカール・ポランニーに関心を持っていたのである。マルセル・モースやブロニスワフ・マリノフスキ、マーシャル・サーリンズといった人類学の系譜の中にカール・ポランニーを位置づけることは考えてきたが、経済学、経済思想としてどうなのかということは考えてこなかった。これは大学を出てから30年以上たった今でも同じである。
この国について言えば、この30年間はバブルからアベノミクスの終焉の時代だった。この期間で、人々の暮らしは確実に悪くなった。貧困と格差が広がり、非正規雇用が急増し、社会保障制度は行き詰まり、教育と文化は劣化し、メディアは商業主義化し、環境破壊は進展し、政治は人々の暮らしを見捨て、官僚は自己保身に走り、民主主義は機能しなくなった。これから、この国はもっと悪くなるであろう。
しかし、経済思想とはつまり本来「どうすればよいお金儲けを促進し、悪いお金儲けを抑制できるか」なのである。悪いお金儲けを抑制し、行うべき産業を行っていかなくてならない。新自由主義が時代の枠組みになっている今、新しい産業社会を模索することに希望を見いだしたい。新しい経済思想とは、どのようなものであるべきなのか。異端派と呼ばれるカール・ポランニーの思想は、そこにどのような意味を持つのか。かつて私は「資本主義」について考えていた。30年後の今、もう一度「資本主義」について考えてみたくなったのである。