映画『教育と愛国』を観た

先日、有楽町で映画『教育と愛国』を観てきた。2017年に大阪のローカルテレビ局のMBS 毎日放送で放送され、ギャラクシー賞テレビ部門大賞を受賞した番組を、追加取材と再構成によって映画版としたドキュメンタリー映画である。

人の生涯において、中学校や高校の教科書の記述の影響などまったくないのかもしれない。政府も学校も教科書業者も、中学や高校の教育はいかにあるべきかということについて莫大な労力を傾けているわけであるが、その教育を受ける側の生徒たちにとっては、中学校や高校は人生のある一時期のことであって、卒業した後の長い人生では中学校、高校の教育などまったく無関係ではないかという声があるだろう。歴史の教科書の記述が南京事件はなかったとか、沖縄の集団自決は軍の強要ではなかったとかいった記述であったとしても、生徒自身はどうでも良いことであり、学校を卒業した後は教科書にどう書いてあったのかということなど思い起こすことなどないのかもしれない。そもそも公教育というものは行政の管理下にあるものであり、国の政策のいっかんである。良き国民の育成のために、良き国民の歴史教育を行うことのなにが悪いのか。政府の教育への介入を大げさに危惧することなどないという見方があるかもしれない。

ところが、そういう話ではない。教科書に正しくないことが書いてあったとしても、生徒の側はそれをその後も覚えていることないのだからどんな記述であったっていいじゃないかという話ではない。公教育なのだから、国の管理下にあるのは当然であるという話ではない。教科書の内容は、生徒が卒業後の人生においてそれを覚えているかどうかということとは関係はない。

公教育だからこそ、政府の介入はあってはならない。時の政府が教育に介入し、政治家の見解や一部の人々の学術的な根拠のない思惑で歴史の教科書の記述が変わるということは、実は社会にとって大変よくないことなのである。

映画の冒頭に小学校の道徳の教科書に登場する話が、パン屋から和菓子屋に変更されということが述べられる。なぜパン屋ではなく和菓子屋になるのか。小学生がパン屋よりも和菓子屋の方に親しみを感じるというのであろうか。パン屋だと愛国ではなくて和菓子屋だと愛国になるのだろうか。どう考えても無理があり、誰が見てもここに違和感と作為的なものを感じるだろう。

「良き」国民とは、「良き」自国の歴史知識を持つべきものであるというのは、想像の共同体である国民国家の成立と不可分のものである。ここで重要なことは、「良き」自国の歴史知識とは、往々にして自国に都合がいい内容になるということだ。自国に都合が悪い事実を隠蔽し、未だ論争中であり定まっていないとして、自国は「正しい」「間違った」ことをしていないとする。しかしながら、当然のことながら、自国に都合がいいことは、他国には承服しがたいことである。自国が常に正しいとすることは、他国を排除、排斥することである。承服できないという他国からの声に対してまともに対応することができず、かくして嫌韓、嫌中の感情を持つようになる。

例えば、南京事件はなかったとするのならば中国は同意できない。他のアジア諸国も日本はいつまでたっても加害の事実を認めない、事実を事実として認識できない知的に低レベルの国であるとするだろう。当の日本自身、歴史資料をまともに理解することができない幼稚な国であるということになってしまう。今の時代は、自国に都合がいいだけの歴史教育ではなく、自国に都合が悪いこともきちんと教える歴史教育でなければならない。自国の歴史の良いことも悪いことも理解しているのが「正しい」ナショナル・アイデンティティーであり、そこから生まれる愛国心が「正しい」愛国心である。公教育は嫌韓・嫌中の日本国民を作るものであってはならない。

戦後の教育は、先の大戦と軍国主義への反省から生まれた。このためどうしても、反戦や平和主義やアジア諸国への加害行為の記述を行うことに傾く。これらをもって「お花畑」「自虐史観」とするのは、当時の背景を知らないといわざるを得ない。しかし、だからといって確実に「あった」ものを「なかった」「あったという説となかったという説がある」と改竄していいわけはない。また、戦後の歴史学において左翼思想が歴史解釈に影響を及ぼしていた一面があることも事実である。この映画の中で東大名誉教授の伊藤隆氏が「ちゃんとした日本人とは」という問いに対して「左翼ではないこと」と答えたことの背景には、戦後の政治というよりも歴史学の中の左翼運動を意味しているのだろう。教育の現場で日教組が支配的な力を持っていた時期も確かにあった。しかしながら、今の世の中は、左翼であることが反国家体制であるという図式はもはや遠い昔話である。日教組の組織率は下がる一方である。今の歴史学は左翼どうこうで歴史解釈をする時代ではないのであるが、伊藤隆氏の中ではあの時代がまだ続いているのであろう。

よくわからないのは、どの国の歴史にも汚点はあり、数々の汚点を抱えながら、それでも国々は和解点を見出そうとし、関係を保とうとする。ところが今のこの国のある種の人々は、この国には汚点など一切ないとし、自国に悪いことがあることを「反日」として極度に忌避する。正邪を正しく捉えることができない。たとえ「反日」であったとしても自国の内部の留め、弁証法的に向上していこうとしない。精神の懐や度量が極端に狭く浅い。というか度量という概念すら存在していない。アジア諸国を嫌悪し、周辺国との良好な関係がないことへの不安と恐怖心が、よりいっそうのアメリカ依存を求める構造になっている。これが今の我が国の姿である。

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