もはやなんでも起こる世の中になった。7月8日、奈良市の近鉄大和西大寺駅付近で選挙演説中の安倍晋三元首相が狙撃され死亡した。狙撃したのは政治的理由からではなく宗教団体からみの理由のようだ。そうであるのならば、あまりにもあっけない結末だったということになる。
安倍晋三という政治家が今の日本に及ぼした影響は大きい。この人物が行った経済、外交、安全保障などろくなものではなかった。アベノミクスは日銀が操作し株価が上がっただけである。日本経済の実体や企業の生産性は上がらない。タイプが違うアメリカのオバマ大統領とは肌が合わず、同じタイプのトランプとは親密な関係を保ち、日本の対米依存がますます強まった。集団的自衛権の行使を可能とする安保関連法の制定によって日本の安全保障が高まったわけではない。これは自衛隊が在日米軍の下請けになるものである。ところが、これらのことがあたかも日本のためになるかのような政治を行ったのが安倍晋三氏であった。このことと日本を含めた世界的な右派的な風潮と新自由主義的な傾向が一致し、安倍一強の政治世論が生まれた。良くも悪くも安倍晋三という人物がこの中核にいたのである。森友・加計学園問題や「桜を見る会」問題など人事権を持つ官邸に官僚は忖度するようになり、国民が疑念を頂くことが行われるようになった。また、安倍晋三氏は歴史修正主義であり、その歴史認識は歴史学から見て話にならないものだった。
その人が銃撃死で終わった。民主主義に対する悪質な挑戦であり、絶対に認められないという声が多いが、実際は民主主義がどうこうということではなく完全に警備の不備の問題である。元々長野へ行く予定が取りやめになり、7日の午後に奈良へ応援演説に行くことが決まったという。奈良県警は急に来たので準備不足にならざるを得なかったであろう。ということは、こうした不慮の事態を想定せずに街頭演説をしたことに問題がある。
安倍晋三氏もSPも奈良県警も、まさか応援演説中に拳銃で撃たれるかもしれないということは思ってもいなかったであろう。安倍晋三氏は首相在任中は北朝鮮からミサイルが来るとか言って危機意識を煽っていたが、安倍晋三本人と自民党には危機管理の意識などまったくなかった。思えば阪神淡路大震災も東日本大震災と福島原発事故も、自民党は政権党としての体験はしていない。このような政党が憲法改正をして再軍備をすると言っているのだ。
銃撃の時の動画を見ると、不審な者が背後から近づき筒状のものを向けている時、警備はなにもしていない。一発目の発砲があった時、安倍晋三氏はマイクを握ったまま、ただ背後を振り返るだけである。続く二発目が致命的になったとのことだ。この光景は極めて今の日本の光景だった。欧米や中国、韓国、他のアジア諸国であっても不審者が不審な動作をするだけで警備者は注視する。銃声が聞こえたら身を挺して警護対象者を守ろうとする。一発目の銃声の時がそのタイミングであった。ようするに、福島原発事故とも共通する異常事態への想像力の欠如だったのだろう。
想像力の欠如がこうした事態を招き、安倍晋三氏は亡くなってしまった。彼がこの国の政治に行ったことの本人へのきちんとした検証ができなくなったということは、計り知れない損失である。