去年から幾度となく北海道を旅している。その度、旅先や自宅に帰ってからその旅行について書いてきた。ひとつの旅行をする度に、それについての紀行文を自分のブログに載せていこうと思っていた。
ところが書いてはいるが、なかなかまとまらない。少し書いてはそのまま断片的な文章で終わり、やがて次の旅に出て行くという有様になった。かくして北海道や東北への旅行をしつつも、それについて書いたのものを表に出すということをしてこなかった。旅行についてだけではなく、世の中の出来事について時折、書いてはいるのだが、それをこのブログに載せることなくDropboxの中に置かれ続けている。
というわけで、去年からの北海道の旅について、Dropboxの中に保存してきたものを書き改めて、これから数回にわけて不定期にポストしていこうと思う。どこまで続けられるかわからないが、とりあえず始めてみたい。
去年の3月、北海道へ行こうと思った。
自分の中で漠然と北海道についての歴史的な関心を持ち始めたのは、司馬遼太郎の『菜の花の沖』を読んでからである。さらに深く考えるようになったのは『街道をゆく』の「北のまほろば」と「オホーツク街道」を読んでからである。ここに書かれている司馬さんの北方の歴史への視点が大変興味深かった。司馬さんにはアジア大陸の遊牧民への想いがあるためか、日本の歴史について、米を主食とする農業社会が最初から日本全土にあって、それがそのまま歴史を経てきたわけではないという考えがある。考えというか、歴史を学べばこれはその通りの事実なのである。
この国の政権は、そのルーツを辿ると7世紀頃に近畿地方の大和平野で誕生した政権を継承している。この政権は米を主食とする人々によって作られた。西日本で普及していた稲作を、東日本に広げることを良しとしている。この政権から見ると稲作をしない民は夷狄であり、それらの民に稲作をさせて支配下に置くというのがこの政権の基本方針であった。当然のことながら、この列島の西にも東にも米を主食としない人々がいた。近畿地方の政権からすれば、彼らは米を作ることをさせるべき相手であり、征討すべき者たちであった。
彼らからすれば、近畿地方の政権は侵略者である。関東以北が近畿地方の政権の支配下に置かれるようになってから、遙かな年月を経た後の世の人々である我々は、例えば東北というと「貧しい」「遅れている」といったネガティブなイメージを持つかもしれない。しかし「貧しい」とか「遅れている」どころか、古代の東北や蝦夷地は狩猟採集の食料が豊富な豊かな地域だった。北アジアと交易を行い、大いに栄えていた場所だった。律令国家体制に組み込まれることで、北方は「貧しい」とか「遅れている」とか思われるようになったのである。蝦夷地は稲作ができない場所であるためか律令国家体制に組み込まれることはなかったが、江戸時代は松前藩によるアイヌへの搾取が行われていた。
北海道のことを考える時、その歴史について考えざるを得ない。いわゆる先住民という観点から考えるのならば、北海道だけの話ではなく、日本列島の各地そのものに先住の人々がいて、その文化があった。先住とは何に対しての先住なのかといえば、稲作を行い米を主食とする人々に対しての先住である。太古のそもそもの最初に、この列島の各地に住んでいた人々は稲作をして暮らす住民ではなかった。近畿地方の政権が、この列島の各地の先住文化を滅ぼしていった。滅ぼしていったというか、稲作を行い米を主食する大和朝廷を源とする政権の社会の文化の中に融合していったという方が正確であろう。
では、蝦夷地に住んでいたアイヌもまた、かつてこの列島の各地に住み、やがて近畿の政権に組み込まれていった先住民たちと同じなのかというと、そのへんの理解がややこしい。例えば、東北地方が大和政権の支配下とされてきたのは6世紀頃の時代であるが、東方地方のさらに先の津軽海峡を越えた向こう側に広がる広大な蝦夷地が大和朝廷を源とする政権の支配下に置かれ、和人による本格的な開拓が始まったのは19世紀からである。東北の蝦夷(えみし)が大和政権と出会ったのは千年以上前のことであり、その後様々なことがあったが現代の時点では蝦夷(えみし)は「和人」の枠の中に収まっている。蝦夷地は和人によって「北海道」と命名されてからまだ150年しか経ておらず、アイヌと和人の間には生々しいものがある。
そんなことを考えながら北海道や東北を歩いてみたかった。